2016年1月26日火曜日

フーフー

自転車で帰る、真冬の夜。

最速で飛ばして、肌に刺す痛いくらいの風を受けながら早く家路に着くか、
それともゆっくり走る分、じわじわと体の芯まで染みゆく寒さに耐えながら帰るのか。
そんなどっちでもいい二択を自分に問いかけるけど、結局いつもの速度の帰り道。

寒い!

どうせこんなに寒いのなら雪を見たい。
降りそうでなかなか降らない、ここ大阪市内。
いくつになっても、音もなく現れる白の景色には胸が躍る。

大嫌いで大好きな季節。
今夜も湯気の立つごはんを。


川原☃由美子








ものの考えかた




お前、前に言ってたこととちゃうやんけ。と、人から言われることがしばしばある。


それは主に議論の場で、自分の考えや主張なんかを話した際に突っつかれるのだ。

この、ちゃうやんけ、と発言した人の言いたい意味はよくわかる。


僕の主張や、考え方などは頻繁に変わるのだ。


例えば、昨日までは「赤い物が素敵」だと思っていた思考は翌日からは何故か「赤い物を見ると虫唾が走る」、「こんな色を好む者はきっと色狂いに違いないだろう」、といった、非常に偏った考えに変わっている、という具合だ。


これには僕自身も日頃から辟易しているのだが、何よりも周りの人々が堪らないだろう。


そりゃ話し合いなんかをすると、冒頭の様に「前と全然意見ちゃうやんけ、このロクデナシ」と僕を面罵したくなる気持ちも理解できる。



しかし、これだけは言っておきたい。



決して無闇矢鱈に意見を変えている訳ではなく、僕は僕なりに自分の意見を色々考察し続けていて、その上で、あ、やっぱちゃうな、前までの俺の意見は間違ってたな、と思うとそれを即座に訂正して生きているだけであり、なにもそれまでの意見を無かったかのように、後述の意見を全肯定するかのような物言いは僕も避けているつもりだし、一応新しい意見を発するときには「いやぁ、先日まではこう思っていたのだけど、よくよく考えるとねぇ…」といった前置きはしているはずである。


それをば、世の人々は「あいつには考えが無い。もしくは学が無い。いわゆる白痴である。あほである。ぼた餅である」みたいな言葉を平気で僕に浴びせ掛けてくるんだもん。


ていうかていうか、おれから言わせたら考え方なんてものは、なんなら一分一秒毎に進化であろうと退化であろうと、変わっていっててなんら不思議ではないんだよ。

なのに一度発言した意見は中々取り下げられない、もしくは訂正できないという世の中の息苦しさ。もどかしさ。そういうとこだけ変に律儀な感じ。


あぁ。色々考える内に脳味噌が小パニックを起こしそうだ。と、思った午前1時の僕の考え。心配はいらない。明日にはまたなにか変わっているだろう。


沢口  裕


2016年1月25日月曜日

林檎転生日記 8




私の相棒は人間ではなく、車である。


毎朝、SUZUKIの白いエブリイちゃんで行商に出掛ける私にとって、まばゆく白いエブリイちゃんは掛け替えのない存在なのだ。


そして私は友人の伝手で絵描きの人物を紹介頂き、真っ白エブリイちゃんの横腹に太宰治の顔写真を転写してもらった。


なぜそんなことをしたのか。それは私が彼に少しでも近づきたい、でも近づけないもどかしさを、ジレンマを、そうすることによって少しでも紛らわし、胸の平静を保つ為である。


で、実際に出来上がりを見ると、これが実にカッコ良い。


車の横腹に太宰治である。


あの、物憂げな、アンニュイな、恣意的な、ナルシストなおっさんの顔が、描かれているのである。


こいつぁすげえ。と思ってじっと見ていると何やらエブリイちゃんも嬉しそうで、今にも歌いだしそうな雰囲気を醸し出している。


そうかそうか、これでよい。



それから数日後。


試しに色々な文章を書いてみた。

するともちろんのことながら、一向に上達の兆しを見せないでいた。



わかっている。わかっておる。



そんなことをしたからといって、文章が上手くなるはずがないことなど、ハナっからわかっておる。



ただ、毎朝車に乗り込む時、あの顔を見ることで、「ああ、なんか書かなあかんなあ」と思わされる、それだけで充分なのだ。


沢口  裕


snowing

先日、僕の地元奄美大島では、百十五年ぶりに雪が降りました。
小さい頃に、昔一度だけ湯湾岳(ゆわんだけ:奄美で一番高い山)の頂上に降ったと聞いた事がありました。
言い伝えと記録にしか残っておりません。もはや伝説の雪です。

ところ変わって関西でも、行商中はらはらと雪が降る場面に遭遇します。

山手の町で、夜の明かりをつけて、今このタイミングで出会えた不思議に笑い驚き、さよならまたと手を振ります。林檎の大きな輪っかの中で、今日もたくさん素敵なものをいただきました。ありがとうございます!


mollenのお知らせ
昨年に上演した人形劇団ピエロック一座とmollenの演目「星の王子様」が、今年3月26日(土)に伊丹市子供文化科学館内のプラネタリウムで、星空演出のもと上演される事が決定致しました。
追って詳細はこのブログでもアナウンスしていきます。もし良かったら!

長村 創
mollen 



2016年1月21日木曜日

林檎転生日記 7




「あっ」


と呟いた僕は筆を止めて天を仰いだ。天、といってもそこは部屋のヤニ焦げた天井だった。


なにが犬の逆立ちであろうか。なにが宮沢りえだろうか。


こんなものは私小説でも小説でも詩でも俳句でもなんでもなく、ただの散文、頭の中に浮かんだ言葉を脳味噌というフィルテーを通さず、ただそのまま垂れ流しているだけのクズ文にしか過ぎないのである。


困った。非常に困った。林檎屋に来てから一番困った。私は林檎行商で日々経験している出来事や考えたことなどを忠実に、かつダイナミックに文に起こし、世間をひっくり返すくらいの名作を書き上げたいと思っているのだ。だから困った。

私は太宰治にはなれないのか。同じくらいの自己愛と自意識を持ったところで、太宰治は文豪、おれはただのちんちくりんの薄ら馬鹿、といういわゆる月とスッポン、みたいな具合にしかならないのか。


しかし私は諦めない。諦めないから次の手を考察した。



そして思った。



やはり真似事ばかりでは駄目なようである。

本人の文章、口癖、立ち居振る舞い、服装、生活のしかたなどを真似たところで、結局太宰治は太宰治であり、横山やすしは横山やすしであり、勝新太郎は勝新太郎であり、おれはおれなのである。誰も、誰にもなれないのである。



しかし太宰治は私の敬愛するおっさんである。


なれないのならいっそ身体に太宰治の顔写真でも刺繍したろかな、などと半ばヤケッパチな思考が閃いたが刺繍ともなると痛みを伴い、それ相当の金銭も掛かるだろうて、止めにした。


じゃあどうしよ、なんかしないと気がすまんなぁ、と、何故か居ても立っても居られない衝動が沸き起こり、また私は「あっ」と言ってみた。



私の相棒に刺繍してもうたれ、と思ったのである。


続く

2016年1月20日水曜日

林檎転生日記 6



で、そこに書かれている要旨は結局こうだった。

「こんなサイトを必死で閲覧してる時点で、あなたは立派なナルシスト」


ほおーー。なるほど。中々キザなサイトである。きっと管理人は生粋のナルシストなのだろうな。ふむふむ。


とはいえ、サイト上の文字、2万飛んで6文字の文章をメシもろくに食わず
必死で読みふけった私ももはや一端のナルシストであると、認めてもらった。これで私もナルシスト。当初の狙いである、太宰治のような独白的な文章を書くことができるようになったのだ。嬉しい。楽しい。大好き。


さぁ、ものは試しと私は早速タイプライターの前に腰掛け、私小説、物事の真髄を鋭く描き出しながらさも独白的で、尚且つ教訓の要素もふんだんに盛り込まれている私小説、読んだ者が皆口を揃えて「この人の書くこと、ふっかいわー」と言わしめるような私小説を書き殴ったろうと思って書き殴り始めた。文字を殴り飛ばした。湯呑みで茶を飲んだ。サイコロを転がした。明日は今日の風。宮沢りえは綺麗だね。僕を忘れないで。犬の逆立ち猫に小判。



僕は書いてる途中で小さく言った。


「あっ」


続く

2016年1月19日火曜日

「幸せになれないわけはないのだ」と母は私に言いました






私の母は


どんぐりが好きです
沢山隠し持っています


図書館が好きです
タダやで〜って
新書を注文しまくります


初めて観た映画は
メアリーポピンズだそうです


月が綺麗な日は
メールで教えてくれます


手紙の最後に
「お母さまより」って書きます


褒めると
口をモゴモゴさせます


ボックスティッシュを
枕にして昼寝します


ドライヤーとかアイロンとか
裁縫道具とか30年以上
同じものを使ってます
すごいことです


家事をしとる時
よく歌います
口笛も吹きます
母が小学校の時の校歌とか


歯磨きが30分くらいかかります


潔癖症でA型です
でも整理整頓は苦手です


京都で産まれ
20歳で結婚しました


結婚式もお葬式も
みんな好きやな〜
せんでいいのにって言います


お昼になったら
もう1日が終わったって言います


「食べや」って勧めてくる時は
自分が好きなもので
自分が食べたい時です


同じフライヤーを
大量に持ち帰って
壁一面に貼り出します


本屋さんのご自由にどうぞの
しおりも大量にもらってきます


「もっともらえばよかった」
って言います


緊張すると便意をおこします


雷と雨が好きで
ワクワクして外をみます


喜怒哀楽が
分かりにくいです


お母さんを
たくさん笑わせたいです


私はマザーコンプレックスです











これもひとつのラブレター









林檎転生日記 5




「現代文明」万歳。

知りたいこと、見たいもの、行きたいとこ、食べたいもの、飲みたいもの、気になったこと、それらを調べようとしたとき、ポケットの中に入れてあるスマートフォンを少し弄くり回せば然る答えが出てくる。


私は日本一のナルシストに成り果てる為、スマートフォンで「ナルシスト  なり方」と検索し、出てきた該当案件にくまなく目を通した。


なるほど、その情報量はというと膨大で、私は自分の汚い部屋にいながら情報の大海を遊泳する気持ちで、マインドはオープンになっていった。


こんなにたくさんの情報が掲載されているならもうあさってにでも私はナルシストになれる。


そうほくそ笑んでいると、中でもとりわけわかりやすく、且つ丁寧にご指南しているホームページを見つけた。タイトルは「現代前衛ナルシスト全集・改訂版」と題されていた。


全文の字数はざっと2万飛んで6文字もあるホームページだが、非常に理路整然としている。


私は未来の私のために、一字一句見逃さぬよう、そこに書かれている文字を追い掛け始めたのだった。



続く

2016年1月17日日曜日

林檎転生日記 4





その昔、小説家として名を馳せた文豪の一人に、太宰治というおっさんがいた。

なんでも彼は世間でも有名なナルシストだったらしい。

例えば散歩中、橋の欄干にもたれ掛かって、タバコを吸い、周りの景色を眺めるときの立ち方一つにしても、彼はわざわざ他人から見られることを意識して、その容子をキメていたという。


私はその記事を読んだとき、なんたる自意識であろうか、と思った。


めっさナルシストやん、と思った。


しかし、同時に、おれもナルシストになれば太宰治のような独白的な文章が書けるのかもしれない、とも思った。


そう思ってしまったのだから仕方がなく、私は他の追随を許さぬほどのナルシストになるため、然る文献を読み漁り、なる方法、必要な手続き、などを調べ尽くしたのである。


続く




寒風準備完投完璧官僚菩薩満場展開愚問集中一発未遂水団手芸防弾水魚さみーさみーとあれこれとあたたかなはるがくるまえにそれぞれもりだくさん

2016年1月14日木曜日

林檎転生日記 3



去年の暮れ、ホーカーベース・スタジオにて、缶詰状態で作成した「JAPANESSQ2015」の映像がやっと完成した。


最後の最後まで何かしらの問題が起こり(編集中に一部の音が消えるなど)、本当に手を焼いた映像であるが、なにしろ出演アーティスト達が皆素晴らしいパフォーマンスを見せてくれたので、勝手にカッコいい映像ができたって感じです。



「思い出の映像」なんてものではなく、歴とした「出来事の映像」である。

https://youtu.be/KgMtEcwrxYU



沢口  裕

2016年1月13日水曜日

2016年 水曜日

2016年 本日開店

美味しいりんごと水曜日
待っててもらって感謝です

今日は、とても寒くて
冷たい雨まで降ってきて

それでも りんごと水曜日
待っててもらって感謝です



◽︎◽︎ 長谷川 美奈 ◽︎◽︎

2016年1月12日火曜日

ジャム作り

キッチンの端っこまで満たす
酔っぱらいそうなほどの林檎の甘酸っぱいにおい。

ふつふつふつ

ジャム作りは、ほっておくと煮詰まって焦げてしまい、
おでんのように勝手にぐつぐつと育ってくれるわけにはいかず、
約1時間、いつも鍋につきっきりで煮込んでいきます。

ふつふつふつ

踊る鍋の中を見つめ続けていると、
ふっと頭にぽっくりと余白ができて、
そこに日々の奥底に沈んだ悩みや迷いが、
ここぞとばかり、思い出したように顔を出す。
あれやこれやを考える。
でも結局のところ私の悩みは知れているようで、
決定的な答えも出たような出なかったような感じで、
考えるのにも飽きたら、
そこからは自分がからっぽになる時間がやってくる。

ふつふつふつ

ひたすらに鍋のなかをかき混ぜる。
明日の朝のジャムトーストの絵を浮かべながら。
それはそれは、無重力の中にいるような気持ちのいいひととき。

ふつふつふつ

かき混ぜるヘラのもったり感に手応えを感じたら、
火を止めてジャムの完成。熱湯殺菌した瓶につめていく。

ふ〜、今日もたくさんできたから、明日会うあの子へも渡そうかな。
と思うのですが、そんな風にいろんな気持ちを交えながら
時間をかけて作ったジャムを誰かにあげるということは、
自分の内側を人様に晒け出すようで、
勝手にいつも心は少し気恥ずかしくもあったり。

だから私は、おばあちゃんになるまでには、
すごく美味しいジャムを作れる人間になりたいと思っています。

ふっふっふっ



川原 由美子




2016年1月11日月曜日

林檎転生日記 2



友人は言った。


「名言なんてものは不確かだよ。だってそうだろ?あんなものは社会的にフィーチャーされている人間がある程度の美辞麗句を並べ立てればそれだけで金言として取り沙汰されるんだから。例えば有名な名言で、「にんげんだもの」って言葉があるだろ?あれなんて君、僕なんかはどってことない、ほんの一文にしか見えないのだ。「え、だからなに?そうだよ?それがどうかした?」って感じしか受けないのだ。あんな稚拙な戯言に一々感銘を受けている品性の乏しい人間とは、ぼかぁ混じり合いたくないね。君はそうは思わないか?なんだってさっきから黙ってにやにや笑ってばかりいるんだ。真剣に話を聞きたまえ。
まぁ兎にも角にも、僕は思うんだ。例えば、その、にんげんだもの、っていういわゆる名言も、先に僕みたいな不良の人間が発言したところで、誰も意に介さず、いよいよ本当に、「は?だからなんだよ?知ってっけど?声を大にしてそんなこと言って一体なんなの?ぶっ飛ばそうかなこいつ」といって僕のことを集団折檻する輩が現れてもおかしくないのだ。言っている意味合いは同じなのにね。あはは。馬鹿げてる。口惜しい。あ、母さん、お調子をもう一本付けてくれ給え」


そういって彼は鯵のフライと飯蛸の酢漬けをアテにして朝まで飲み食らった。よほど嫌なことでもあったらしい。


私は家に帰って、わかめの味噌汁と白飯を平らげ、アッツアツのシャワーを浴びた。風呂から出て就寝前の珈琲を煎れ、そして翌日の行商の支度をして床に就いた。


さあいざ眠りの世界へ、と目を閉じると、彼の言葉が頭の中でぐるぐると回って中々眠れず、苦しい思いをした。



だってそらそうだろう。

名言なんてものは、その人の人格とか功績が認知されているからこそ、その人物の発する言葉に重みが増すのであり、ろくに努力もせず、家でテレビばっかり見て過ごしてきた奴が「夜明けは近いぜよ」とかいったところでその言葉に重みなどは皆無なのだ。それこそ、だからなに?なのだ。


しかし彼はその辺を理解せず、それを口惜しいといって、言っている意味合いは同じなのにね、と言った。


私はそこら辺の意味合いを履き違えている彼に口惜しい思いをして、眠りの浅いトンネルを抜けると朝だった。眩暈がした。



沢口  裕

2016年1月10日日曜日

林檎転生日記 1





書いたものに題名をつけるのが苦手である。


特にこうして毎日の出来事や考え、フィクションなどを織り交ぜたりしながら書いている日毎のブログには、その苦手具合はより顕著なのである。

書き終えた文章に題名を付けようと艱難辛苦して気付けば朝ぼらけ。

ほら、もう行商に行く時間だよ、あんた、いつまでそうしてるんだい、この甲斐性無し、と、お母さんから怒られることもしばしばなのだ。


そんな日々にはもう辟易した。

そうして項垂れていると、ムカイ林檎店の女将である美奈師匠から、

「タイトルを固定すればよろし。そしたらパッと見ぃであんたが書いた文章だってことがわかるようになるし。うんうん。それがよろし。嗚呼。寒空の、立ち枯れの木に、思いを馳せる。長谷川美奈」

と助言を頂き、おれは、ほっほーーーん、なるほど、確かにそうかも。それは一理あるかも。千里の道も一歩からかも。と、美奈師匠の提唱するタイトル固定論に激しく同意した。そっちのほうが楽だし。
ということで、もうそうとなれば今日のブログからタイトルを固定してもうたろ、という考えに思い至った俺様は早速タイトルを考えた。

そして題されたのが、



林檎転生日記



これはどういう意味かというと、まぁ、自分の性格上、一々文章や物事の意味などを講釈するというのは嫌い千万なので、かなり億劫なことではあるのだが今回は敢えて説明すると、皆様は「輪廻転生」という言葉をご存知だろうか?多分、知らないと思う。抦!そこの君!今、Wikipediaを使って調べようとしたね?それは駄目だぜ?なんでもかんでもすぐネットに頼って検索するというのはよくないことだ。meが認めているのはせいぜい大辞林で引くことぐらいさ。


まあ要するに、「輪廻転生」ってのは生まれ変わりのことだよ。それを仏教用語で神聖に、かつ神妙な感じを出すために4文字の漢字でぎゅっと凝縮させたんやわ。「因果応報」とちゃうで?「輪廻転生」やで?


そして私が付したこの「林檎転生」というのは、まぁ、言うなればダジャレである。「ダジャレ」も漢字で書けば「駄洒落」である。


輪廻、の、りんね、が、林檎の、りんご、と語感が似ているから、まぁそんならなんか深い意味合いとか読み手が勝手に解釈してくれそうだなぁと思ってそうしたのである。


あと、林檎は永遠である。地球に酸素があってそこに時間が流れていれば、という条件付きではあるが、人間なんかよりずっと永遠である。
輪廻転生もまた、永遠である。



非常にわかりやすく、かつ具体的に意味を説明したつもりではあるが、まだわからない、理解できない、息切れが激しい、などと感じた人は直接聞きに来て下さい。


ということで林檎転生日記の1日目はこんな感じ。久々の2連休。僕は珈琲をもう一杯飲んで、お昼寝しようと考えている。



沢口  裕



真っ白な風船に乗っかった林檎は今頃何処の島で誰と遊んでいるだろう2015ジャパネスクライブYouTubeアップされました

2016年1月8日金曜日

快復




行商で住宅街を回っていた。


中々道幅が狭く、家と家との間隔も狭小で、夜になって空を見上げても、屋根が出っ張ってせっかくの晴れ間から星が見えづらい。


どうやら星座が出ているようだってことは伺いしれるのだが、その全貌は到底見えそうになかった。


そんなきれぎれの星空の下、夜20時まで回って、最後のお客さんが残りのリンゴを全て買ってくれた、と聞いた瞬間、おれは嬉しさと安堵感でふっと力が抜けた。
そいでなんとなく空を見上げた。


すると、さっきまで端々だった星座の全てが見えていた。


あれ?なんで?どうして?ってあちこち立ち位置を変えて見上げてみてもやはり見えるのである。


久し振りに肩のコリが無くなったような気がした。


沢口  裕

2016年1月7日木曜日

たまんねえ





くるくるに包まって車の中に7時間ほど滞留していた本日の私。


ちらと窓の外を見てみると、主婦同士の立ち話が始まってそれに退屈をした女の子が、鼻を窓ガラスに擦り付けんばかりにぐんぐんに近づいてこちらの様子を伺っていた。


あはは、と微笑み掛けると少女はまるで幽霊と目が合ってしまったというような顔をして親の元へ戻っていった。


こらこら、誰が幽霊や。

と、いつもの僕ならそう言って子供と仲良く戯れるのであるが、今日の僕はどういうことだろう。


そんな邪気の無い少女を前にしても、ふーーーん、と、車内から冷視線を浴びせるだけである。


なーるほど。いわゆるこれが正月呆けというやつかー。


って自分で納得がいってもなんの気力も起こらず。無気力。


いかに無気力かは灰皿に溜まってあるタバコの本数を見ればわかる。



本当に、お金は使うのは簡単だが稼ぐのは大変です。



沢口  裕

2016年1月5日火曜日



儘 [ ま ま ]

①その状態に変化のないこと。それと同じ状態。「昔の―」「現状の―」「立った―の姿勢」
②(多く「ままになる」の形で用いる)思い通りの状態。自由。「意の―になる」「こう物価高だと買物も―にならない」
③成り行きにまかせること。古くは「…ともままよ」「…とままよ」などの形で用いられることが多い。「成すが―」













2年間くらい  この画像を

iPhoneの壁紙にしています

好きな箇所が沢山あります

色も服も影も指も





中でも

この不安定なバランスが

そそられます

不安定だけど

落ち着いてて

気持ちもよさそうな

ギリギリのバランス



-



人は自分でバランスを

とっています

人からは不安定にみえても

それがちょうど心地よかったり

微修正したり

そのバランスに飽きたら

大きく変更してみたり










「変わりたい」

って

人に相談したら

「自分に飽きてないんやろう」

って言われました

変わるには

今の自分に飽きることが

手っ取り早いデス

まだ飽きてなかったら

そのままでいい

抱えたままでいい






どうひろこ





ワタクシハ
そろりそろりと
変化します
変化しなければならない
変化する必要があるでしょう?



ミルクとシロップを入れて





カフェで飲むコーヒーは格別です。
宿酔のムカつきもさらりと溶け出して脳内のもやもやもスッキリするのは誠に不思議だなあ、と感慨深くなるのです。
そうして物思いに耽って一体なにを考えてるん?と隣のオバハンがおれを凝視している。
なに見とるんじゃ、ごるあ。と白目で睨みを利かせるとオバハンはカプチーノを口から吹き出し、地団駄を踏んで帰ってった。
そしてまた愉悦に浸って一人にやにやしている。

昨晩が楽しかったのである。ああ、楽しかった。なにがどう楽しかったかなんて、僕の技量では書き記せないけれど、いわゆる筆舌に尽くしがたいという表現でも敢えて使ってみようか、ともかく楽しかったのである。
あまりの楽しさにブログのことがドタマから吹っ飛ぶぐらいである。

その代償が先程まで私を苦しめていた宿酔ではあるのだが、まぁそれも致し方ないであろう。年齢と共に苦しみの具合は増していってるような気もするが。

字面ばっかり飾ってこんなに中身のないブログを書いてみるのもたまには悪くないかもしれないなぁ、ってカフェの店員さんに耳打ちしたら、帰れ、馬鹿野郎、豚野郎、って言われた。時給9.000円ぐらい貰ってるのかな?と思ってしまうぐらい高尚な態度で。


沢口  裕

2016年1月3日日曜日

2日分






旅は道連れ。目を覚ましたのは夕まずめ。狭い車内で唐変木のように倒れていた僕は昨日の記憶がほとんど無かった。
あれ?相方のPLFは?と見渡してもいない。あんれー?とりあえず今ここは岡山だよね?って一人二日酔いのムカつきと気持ち悪さでうんうん唸っていたら電話が鳴った。

「はい」と僕。
「あ、ユウ?わりーんだけどさ、ちょっと迎えに来て欲しいんだよね」と掠れた声のPLFは言った。
一体どこにおるのだ。一先ずメールで送られてきた住所に向かうことにした僕の目は真っ赤に充血していた。




「目的地に到着しました」とカーナビが断言するので、ならここで間違いないだろうと辺りを睥睨した。周りには民家など無く、畑やなにやら工場機械などを保管しておく倉庫などが点在しているようなところで、非常に閑散としている。
何故にこんなとこへ呼び出すのだ、と車内で待機していると、現れたPLFさん。
顔はげっそりしていて、至る所に醤油やソースの跡と思しきシミが付着している。
やあ、と挨拶はほどほどに、一体、昨晩はなにがあったのか、と二人で記憶の照らし合わせを行ったところ、どうやら二人の間の酒量が一定程度を超えてしまい、双方ともに記憶が消し飛んでしまっていた。
とにかく二人の荷物の無事だけでも確認して、紛失物はないな、あはは、よかったなあ、と脳天気にしていると、大事なことを思い出した。

「林檎売り、どうするよ」
ぼそっと口にしたらPLFさんの表情が苦痛に歪み、噛み潰した苦虫が歯に挟まって取れないといった顔をした。

「だよなあ」といって僕は帰りの道順を調べて下道で帰ることにした。今はその車内。



謝罪

元旦のブログにて「毎日ブログを書くぞーo(`ω´ )o」と断言していたにも関わらず早速昨日飛ばしてしまいました。これはよくないですね。先が思いやられますね。気をつけます。一生懸命生きていきますので。暖かく見守って下さい。

無知





安土城はどこぞ、って散々街を探し回った結句、どこにも見当たらないというのは不自然だ。城の神隠しかしらん。と、今日の相棒であるPLFと小首を傾げ、ああそうだ。インターネットで検索してみようと考え至ったのは
正午のこと。
出てきた結果を見て我々は驚いた。
安土城は滋賀県にあるのである。
なんてこったい。我々の努力は水泡に帰したのだ。
ってお前達は一体どこを探し回ったのだとお思いになられる方がいらっしゃるでしょう。
私達は本日から正月の願掛けも兼ねて、いわゆる旅売り、遠方へ足を伸ばして林檎を売りまくるというプロジェクトを敢行しているのだ。
で、場所は岡山。その岡山の地に安土城が存在すると固く信じていた私達は猿にもキジにもなれぬ。がんばって林檎売ろう。

2016年1月1日金曜日

1日目




時間の流れを早く感じているのは、なにも私達のようなおっさん連中だけには留まらないようである。

以前、電車の中で小学三年生の男子がこんな会話をしていたのを聞いた。


「なぁあっちゃん。おれは思うんだ」
小太りの少年がおもむろに言った。

「なんだよ、どうしたんだよ」
あっちゃんは車内広告を隅から隅まで見渡しながら気のない返事をした。

「俺たちって来年で小学4年生じゃん?てことはだよ、俺たちが小学校に入学してからもう4年も経つってことだよ。それって凄くね?」

「すごくね?ってなにが?至極当然の事じゃん。水の低きに就く如し極めて当たり前の事じゃん」そういってあっちゃん、今度はスマートフォンを取り出してこれを操作している。

「いや、それはそうなんだけど、おれが言いたいのは、時間、早くない?ってこと。この三年間あっというまだったなってこと」

「ああ。確かにそれはちょっとあるかも。こないだも親父が、「お前が産まれてもう10年かあ、早いなあ。おれももう四十かあ」なんつって泣きながらルームランナーで爆走してたよ」

「おいおい、泣きながら爆走かよ、お前んちの親父やばいな」

「だろ?」
「だな」
「だべ」
「だがや」
「だぎゃー」
「俳句でもはじめません?」


と言って二人は笑い死にするのではないかと思うぐらい笑いに笑った。場の空気に合わせて笑ってる、という感じではなく、二人とも真剣に笑っていた。

おれは、はぁ、子供って苦手やわぁ。と内心で思いながら件の会話を頭の中で反芻させた。

おれが奴らと同じ身分の頃、時間というものはとてつもなく長く感じられるものであり、ともすれば小学校を卒業するころにおれは憔悴しきってしまい、中等学校ではもうすっかり枯れ果てて、習うものも習えない状態に陥っているのではないだろうか、などと行く先の危惧感が否めなかったりしていた。

それをば、今日日のチルドレンときたら既に、時間の早さ、早さ故の儚さ、などをそれなりに感じ始めて、これに陶酔して俳句などを始めようとしているのである。

子供はお外で遊ぶものである。

なんてことを言いたいのではなく、なにをするにも初めてづくしの子供というものは当然、既視感というものが皆無なのであり、毎日、毎時間が緊張感の塊であるのだから、その分時間の濃度は増すのであって、昔の私のように時間の経過が遅く感じるのが自然なんじゃないか、と私なんかは思っている。


そんな初めて尽くしの子供までが、時間を早く感じるということは、これはもう感じ方の問題ではなく、実際的に時間というものは少しづつ早まっていっているのではないか。


時間、なんていうものは所詮、人間が作り出した一つの目安にしかすぎず、「今何時?ええ、もうそんな時間?やばいよ、やばい。早く帰らないとカミさんにどやされる。では私はこれで失敬」と言って終電を気にする雄ライオンなどどこのサバンナにいるだろうか。

人間が決めた時間の概念なんて本当は凄く不確かで、絶対的な真実ではないのである。怖ろしいのである。


ということで、時間が明らかに早まっているというのであれば、人生というものも当然短くなるのであり、これまでよりもより一層毎日を緻密に、大事に生きて行かなければならぬなあ、と思い、今年からは毎日、もう本当毎日、このブログに一言でも残していこうと決起した。

大変だろうなぁ。面倒臭いだろうなぁ。などと思っている時間が勿体無い。2016年という一つの目安の中で、私は私の出来ることを少しでも行動に移していこうと思ったんだ。と、思ったんだ。子供達に感謝。明るい未来。サボテンの花。灯台元暗し。


あけましておめでとう御座います。今年もムカイの林檎をどうぞご贔屓に。



沢口  裕