2016年6月28日火曜日

聞くことは受け身ではなかった

今、とある書籍の製作で連日取材をしています。
たくさんの場所へ行き、
たくさんの人のお話を聞かせてもらっています。

私は人付き合いがあまり得意ではなく、
いくつになっても「話す」という
人間の超基本的行為への苦手意識をいまだに拭い切れません。
うまく話をする友達に憧れる私は、
聞くことは話すことよりも格段に簡単で、誰でもできる事だと思っていました。

取材をさせてもらうのは、何まわりも歳が上の人がほとんど。
念願叶って実現するとあって、
気持ちは高ぶりと緊張で、もはや心の余地はない。

聞いて、答えてもらって。
聞いて、答えてもらって。
うんうん、そうですか。はい。

基本的なことは知れても、なかなかそれ以上の話が聞き出せない。
なかには関西ということもあってか、
頼んでもいないことまでしゃべり続ける人もいてくれるのですが、
取材慣れしていない人や、石のように寡黙な人もやっぱりおられるわけで、
そんな人にこんな私が話を聞くと、
どこからか沈黙の恐怖が静かに押し寄せてきます。

とある日、あまり話を聞き出せないまま取材時間は終わり、
自分の無力さにすっかり落胆し、帰り際に交わした他愛のない話のとき。
「私は大阪の◯◯から来たんですー。」という私の言葉に、

(相手)「お!!!」
(私)「!?」
(相手)「私も◯◯に30年前住んどったんやで!」
(私)「そうなんですか?」
(相手)「やー懐かしい。あのときなぁ◯◯が◯◯で◯◯◯」

相手の目玉はひとまわり大きく開いて、
塞いでいた蓋はぱかっと外れ、滝のように話が流れはじめました。
昔の記憶を思い出しながら、大切な胸のうちを楽しそうに話してくれました。
取材という括りを手放したときに訪れた、思いがけない出来事でした。

私はちょっと間違えていた。
うんうんと聞き手だけにならず、舵を取って、自分の話もする。
だから相手も心を開いてくれて話を切り出してくれる。
そして自分の引き出しを増やして心を開く鍵を持ち、
例え相手がとても尊敬する人であっても、なるべく平常でいること。

ようやく少しだけ解決への糸口を掴んだ頃、全取材は終了。
ここからは、そんな取材内容を文章におこす原稿作業が待ち構えています。
文章を書くことの楽しさとそれ以上の難しさ。
これまた思うことたくさんで。

(次回へ続く)


川原 由美子

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