2016年2月10日水曜日

最低限の希望





かつての朋友から久方振りに連絡があった。



元々は同じ釜の飯を分け合って過ごした仲であり、毎日毎日、来る日も来る日も共に過ごした旧知の人物である。


善事も悪事も友人から。


とは私の造語であるが、まさしくこの言葉通りに、良くも悪くも奴からは様々な事を教わったり学んだりした。語り尽くせぬ青春の日々。嗚呼。鳥の鳴き声とて、人の青春には遠く及ばない。


そんなことはさておき、ある時を境に彼との付き合いに対して、私は「なんか違うなー」という、いわば違和感が頭をかすめるようになり、ここはお互いの為、一旦距離を置こうと思って去年以降、こちらからの連絡は一切、遮断していたのだ。


向こうもそんな私の気配を察知してかせずか、パタリと連絡は止み、知らせがないのはいい知らせ、どこかで元気に暮らしていることでしょう。と悠長に暮らしていたのも束の間、唐突に連絡が来た。


なんじゃらほい、って連絡を受けてみると、こんなやり取り。




「もしもし」とは僕。

「あ、もしもしー。おれだけどー久しぶりー」
「久しぶりー」
「あ、なんか急にごめんねー。元気してたー?」
「元気だけど。なに急に、どうしたの?」
「いや、ちょっと聞きたいんだけどさ、おれのマイナンバーってそっち届いてない?」
「は?マイナンバー?」と言って寸時考えた。



この男は所謂行政機関における書類や手続きとは一切無縁の男である。というのも、それは彼が選んでそうなった訳で、所謂住民票、や、健康保険証、といった世間では当然極まりない書類における手続きを忌み嫌い、避け続けて生きている人間であり、それらを持たない人物が唐突に連絡をしてきて、現在最もホットな行政書類である「マイナンバー」の所存をおれに確かめるのである。ただただ怪訝でしかなかった。


「いや、届いてないけど。なんで?」と聞くと、

「いや、前まで一緒に住んでたから、ひょっとしてお前ンチに届いてんじゃないかなーと思って」と涼しい声で答えた。

「や、そういうことじゃなくて、なんでマイナンバーなんて必要としてんの?」と聞くと、思いも寄らぬ答えが返ってきた。


「じつはさ、おれさ、就職することになったんだよね」


一瞬、意味がわからなかった。だから言葉もすぐには出てこなかった。



あの男が。就職。かつて学生時代からバイトしていたファストフード店も、焼き鳥屋も、パチンコ屋も、風俗店も、林檎屋も、全てが長続きしなかった男が。就職。


嘘だろ?と問うと、


「嘘じゃないさ。おれはこれまでの人生を改心して新たに志しを見つけ出し、真にやりたいことが定まった。それは飲み屋である。かつてお前と方々を散策し、合計すれば数え切れぬほどの飲み屋に遭遇した。そんな日々を振り返り、おれは今後は酒を出される側ではなく、酒を出す側へなりたいと思ったのだ。理由などない。ただ、新たに自分を試せれる場所で、人に喜びを与えられる舞台はそこしかないと思ったのだ。それになりより、おれがそれをしたいと思った。だから選んだ。だからおれはある店で去年から下積みをしている。そこに就職したいと願い出た折、マイナンバーが必要だって言われたんだ。だからお前に聞いた。悪いけど本当に知らない?」



私は一度郵便物を調べてみる、とだけ言って、連絡を切った。





外の風を吸おうと思ってベランダに出て缶チューハイを飲んだ。



外はめちゃくちゃに寒かった。



ちゃんちゃんこを着ていても肌着を通して風が吹き込んでくる。


しかし冬は嫌いではない。


私は、あっ、といった。


この頃日付の感覚が薄れているが、思えばあと数日で三十になる。


その友人のほうが五才年上で、一緒にいた頃はそのせいもあってか、自分は常に若いものだと錯覚できたものだ。


しかし、少し距離を置いてみると、自分ももう立派な大人の歳である。


負けてられない、と思って部屋に戻り、空き缶を燃えないゴミの袋に入れて、次は日本酒を飲もうと思った。
もうすぐ春。


沢口  裕


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