2015年9月11日金曜日

BABY IN CAR

解せないものは解せないのである。

この頃は車に乗る機会が非常に多く、そうなると自然と他者の車にも目がいってしまうわけなのだが、信号待ちなどで前の車をなんとなーく見ていると、ほら。また貼ってる。「赤ちゃんが乗っています」シール。

これを貼っている車が近頃、非常に多いなー、と思うのだが、恐らく以前からの風習なのだろうか。大体3台に1台ぐらいの割合で見かけるのである。

そして私はこの文化に並々ならぬ疑問を抱いており、解せねえ。

まぁ、世の中に赤ちゃんの数が増加しているというのであればそれは素直に喜ばしい事態だとは思うし、そしてその赤ちゃんを車に乗せるのも大いに結構。さらに乗せていることを、あのシールを貼ることにより、他者に伝えて、周囲の注意を喚起するのもまぁよしとしよう。
しかし、である。
「赤ちゃんが乗っています」というと、物凄く客観的な表現になるのであって、そこに私はのっぴきならぬ違和感、下劣感、嘔吐感に苛まれるのである。
まるで赤ちゃん自らが車のドアーを開き、後部座席にどっかと座って、運転手に「中目黒まで」などと注文している姿がありありと浮かぶのである。もちろん、そんなことは起こり得ないしあってはならないことだ。

いやいや。赤ちゃん乗せたんお前や。
と、あのシールを見る度に、シールを貼った者に対して思う私は白痴でしょうか。

じゃあ一体なにが正解なのかというと、この場合、大半は親の用事、意思、もしくはエゴで赤ちゃんを搭乗させているのであるから、そこはもうぶっちゃけ、
「赤ちゃんを乗せています」、
もしくは、
「赤ちゃんを乗せました」が正しいのである。

さらにもっというのであれば、人命とは平等なものである。

赤ちゃんであろうが老人であろうが、人の世をまっとうに生きているのであれば平等に変わりないのであるから、赤ちゃんが乗っていますシールだけではなく、例えば、「弟も乗っています」とか、「姉を乗せています」とか、老若男女問わずこういった主張はなされるべきではないのだろうか。不公平だろうが。
と、僕などは煩悶するのよ。






沢口  裕

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