時間の流れを早く感じているのは、なにも私達のようなおっさん連中だけには留まらないようである。
以前、電車の中で小学三年生の男子がこんな会話をしていたのを聞いた。
「なぁあっちゃん。おれは思うんだ」
小太りの少年がおもむろに言った。
「なんだよ、どうしたんだよ」
あっちゃんは車内広告を隅から隅まで見渡しながら気のない返事をした。
「俺たちって来年で小学4年生じゃん?てことはだよ、俺たちが小学校に入学してからもう4年も経つってことだよ。それって凄くね?」
「すごくね?ってなにが?至極当然の事じゃん。水の低きに就く如し極めて当たり前の事じゃん」そういってあっちゃん、今度はスマートフォンを取り出してこれを操作している。
「いや、それはそうなんだけど、おれが言いたいのは、時間、早くない?ってこと。この三年間あっというまだったなってこと」
「ああ。確かにそれはちょっとあるかも。こないだも親父が、「お前が産まれてもう10年かあ、早いなあ。おれももう四十かあ」なんつって泣きながらルームランナーで爆走してたよ」
「おいおい、泣きながら爆走かよ、お前んちの親父やばいな」
「だろ?」
「だな」
「だべ」
「だがや」
「だぎゃー」
「俳句でもはじめません?」
と言って二人は笑い死にするのではないかと思うぐらい笑いに笑った。場の空気に合わせて笑ってる、という感じではなく、二人とも真剣に笑っていた。
おれは、はぁ、子供って苦手やわぁ。と内心で思いながら件の会話を頭の中で反芻させた。
おれが奴らと同じ身分の頃、時間というものはとてつもなく長く感じられるものであり、ともすれば小学校を卒業するころにおれは憔悴しきってしまい、中等学校ではもうすっかり枯れ果てて、習うものも習えない状態に陥っているのではないだろうか、などと行く先の危惧感が否めなかったりしていた。
それをば、今日日のチルドレンときたら既に、時間の早さ、早さ故の儚さ、などをそれなりに感じ始めて、これに陶酔して俳句などを始めようとしているのである。
子供はお外で遊ぶものである。
なんてことを言いたいのではなく、なにをするにも初めてづくしの子供というものは当然、既視感というものが皆無なのであり、毎日、毎時間が緊張感の塊であるのだから、その分時間の濃度は増すのであって、昔の私のように時間の経過が遅く感じるのが自然なんじゃないか、と私なんかは思っている。
そんな初めて尽くしの子供までが、時間を早く感じるということは、これはもう感じ方の問題ではなく、実際的に時間というものは少しづつ早まっていっているのではないか。
時間、なんていうものは所詮、人間が作り出した一つの目安にしかすぎず、「今何時?ええ、もうそんな時間?やばいよ、やばい。早く帰らないとカミさんにどやされる。では私はこれで失敬」と言って終電を気にする雄ライオンなどどこのサバンナにいるだろうか。
人間が決めた時間の概念なんて本当は凄く不確かで、絶対的な真実ではないのである。怖ろしいのである。
ということで、時間が明らかに早まっているというのであれば、人生というものも当然短くなるのであり、これまでよりもより一層毎日を緻密に、大事に生きて行かなければならぬなあ、と思い、今年からは毎日、もう本当毎日、このブログに一言でも残していこうと決起した。
大変だろうなぁ。面倒臭いだろうなぁ。などと思っている時間が勿体無い。2016年という一つの目安の中で、私は私の出来ることを少しでも行動に移していこうと思ったんだ。と、思ったんだ。子供達に感謝。明るい未来。サボテンの花。灯台元暗し。
あけましておめでとう御座います。今年もムカイの林檎をどうぞご贔屓に。
沢口 裕
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